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■ 第169回 『ポケモン』ここはどこ? 私は誰?
故・首藤剛志さんによる”ミュウツーの逆襲”の裏話などのコラム
169回〜185回「ミュウツーの逆襲コラム」
やはり、「深層海流」のシンボルになるポケモンが必要である。
が、しかし。今までの『ポケモン』で、ゲームに登場しなかったポケモンはでてきていない。
つまり、映画専用のオリジナルポケモンである。
それが許されるのかどうか?
「この映画のためには、深層海流に住むオリジナルのポケモンを出したいんですけれど」
反対意見がどっと出ると思ったら、あっさりOKが出た。
スタッフも制作上層部も映画2作目に耐えられるポケモンの不足が気になっていたようだ。
そして、僕が書こうとする脚本の中の深層海流の意味も、もしかしたらピンときていなかったのかもしれない。
だから、派手なオリジナルポケモンが必要だと感じたのかもしれない。
御前様が僕の意見に反論しなかったのは、この時がはじめてだったような気がする。
映画の短編を書く予定の脚本家の方が、あまりにあっさりオリジナルのポケモン登場が決まったのが意外だったようで、「よかったですね。これで、2作目の映画はできたようなものですね」といってくれたが、「そう簡単にいかないよ。問題はこれからだよ」と応えた。
僕は、四大怪獣ポケモンのプロレス映画を作る気はなかった。
デザインも名前も決まっていないオリジナルポケモンは、とりあえず、X(エックス)と呼ばれた。
したがって、ポスターの題名はしばらくの間「X爆誕」と書かれていた。
試写会の時に、総監督が呟いていた。
「あと10分、上映時間が長ければ……」
あるプロデューサーが直ちに答えた。
「それはダメです。上映時間は増やせません」
その10分に総監督は何を入れるつもりだったのか。
それがジラルダンのシーンだったら、『ルギア爆誕』の印象はストレートな軽いアクションアニメではなく、かなり屈折したものになったかもしれない。
『ポケモン』映画はアクションアドベンチャーのつもりである。
なにしろ爆誕である。
いつのまにか、「命をかけてかかってこい!」という宣伝文句までできていた。
題名と宣伝は、完全に派手な喧嘩腰のアニメに思える。
お・・・おう
主人公のサトシのママがラストに出てきて「世界を救うなどというだいそれたことを考えずに、あなたは、あるがままを生きなさい」という意味のことを言うが、これは、父親としての言葉ではありえない。サトシを生んだ母親だから言える台詞である。
なぜ、カスミは、主人公サトシとともに旅をしているのか。以前も書いたが、カスミの台詞に「私の行きたいところにたまたまサトシがいるだけ」という答えがある。『ルギア爆誕』のゲスト、フルーラから挑発的に「あなた、サトシのガールフレンドなの? 趣味悪いわね」という意味の台詞――これは、『ルギア爆誕』におけるカスミという存在への挑発でもある――への、いわば、売り言葉に買い言葉的な台詞である。
「私の行きたいところにたまたまサトシがいるだけ」という台詞の裏に、カスミ自身も気がついていないサトシへの恋愛感情が隠されていると感じていただく方々もいるが、それは、僕がカスミの存在感を目立たせるために用意したフェイク(ひっかけ)シーンである。
カスミはサトシに対して、恋愛感情など持っていない。カスミの持つサトシへの恋愛感情が『ポケモン』のテーマの一つになると、『ポケモン』というシリーズの全体構造が壊れてしまうのである。
仮にカスミにサトシに対する恋愛感情が芽生えたとしても、サトシとピカチュウの関係には割り込めない
『ルギア爆誕』では、海でおぼれたサトシを助けるシーンを用意した。
サトシを人工呼吸で蘇生させるのだが、実はこのシーン、脚本でのカスミは、息をしていないサトシの胸を何度もぶんなぐるのである。
ここで、サトシに死なれたら、わたしの『ポケモン』における存在位置はなんなのよ――サトシに生きていてほしいという愛ではなく、サトシに死なれて、自分の存在がより希薄になることへの怒りがこもっている、というつもりだった。
このシーン、外国では暴力シーンに誤解される恐れがあるという上層部の考えで、ぶんなぐりは消されてしまった。
カスミの怒りの見えないそのシーンは、サトシの命を助けようとして必死になっているカスミの愛情表現に見えかねないシーンになってしまった。しかし、それでは、ごく普通のステロタイプの女の子でしかない。
個性的なキャラクターで埋め尽くそうとした『ルギア爆誕』のなかで、カスミはごく普通の女の子になってしまった。
その後、『ポケモン』が新シリーズになり、カスミは他の女の子に交代した。
ルギアの時点でお墨付きだったのか・・・